2007年05月01日
沖縄バス4社合同フリーチケット【得】
写真のフリーチケットは4/28-30、または5/3-5の各3日間、沖縄本島路線バスが1000円で各3日間乗り放題(高速バスおよびリムジンバス以外)です。
これを使って、那覇から本部経由で伊江島に行ってきました。通常、那覇ー本部はバスで片道2400円程度(乗用車では80キロ、高速道路1000円)かかりますが、片道500円以内で済んでしまったわけです(3日間乗り放題なわけですから)。時間も那覇ー名護がちょうど2時間、名護BTでの本部行き(66系統)への乗り換えもスムーズで、那覇を出てから3時間で伊江島フェリーに乗っていました。普段より少し高い位置からの車窓を楽しむのもよいし、本を読むのもよいし、昼寝もまたよし。快適です。
沖縄は全国一のレンタカー天国で、沖縄大学の調査によると沖縄県内のCO2排出量は京都議定書段階から+31%(全国は+7%)。全国に比べ、事業所からの排出より自家用車など一般からの排出が多いことが特徴です。
車依存により慢性渋滞、環境悪化、大気汚染、エネルギー消費過多、生活時間のムダという悪い連鎖に陥っている沖縄の現状を、観光から変えるいいきっかけかです。GW後半に沖縄にお越しの方は、レンタカー以外にバスも交通手段として考えてみては。
那覇バスターミナルで売っています。
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18:24
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2007年04月22日
「恋しくて」中江監督×加那子×与世山さん対談取材【沖縄映画】
何かと多忙続きのなか、記録者、記者としての仕事で、映画「恋しくて」の沖縄公開に合わせ、中江監督と、主演で加那子役の山入端佳美さん(高校生)、お母さん役の与世山澄子さん(ジャズボーカリスト)の対談を取材した。沖縄タイムス朝刊に掲載される。
「ナビィの恋」「ホテル・ハイビスカス」中江裕司監督の新作で、BEGINの青春時代をモチーフしたもの。山入端さんは、映像での石垣島の野性的な少女イメージとは少し違って、那覇市内の県立高校に通ういかにも今どきの賢そうな沖縄の女子高生。でも、野生児、天然少女の観はあった。
与世山さんは、以前に彼女の店「インタリュード」でお会いして以来だったが、映像でも普段でも自然体で変わらない、沖縄らしいおだやかな風を持つ方だった。
映画では与世山さんがルイ・アームストロング「この素晴しき世界」を最初と後半の2回唄い、2回目では加那子の手紙の文字をカメラがアップで追う上に与世山さんの歌が重ねられる。文字は山入端さん直筆だが、通常このケースでは文字は別に用意されたものが使われ、加那子の声がかぶせられるのが映画の常識という。ろうそくに照らされた文字と与世山さんの深い歌だけの演出が心に響き、胸に込み上げてくるものがある。
「ナビィの恋」でも「RAFUTE」「下千鳥」が最初と最後の2回歌われ、2回目の歌に深いメッセージを感じたが、方向性は異なるように思えた。この点について、中江監督にとって両作品での沖縄の音楽が持つ意味を「もしかして、“ナビィの恋”は問いかけで、“恋しくて”で答えを出したのか」と問うと、そうかもしれない、きっとそうです、「ナビィ」のときは実はいまひとつ沖縄の音楽が持つ意味がピンときてなかったけど、今はわかってきた気がする、と答えられた。
沖縄人の視点だけでも、本土人の視点だけでも描けない、独自の中江作品。前2作同様、全編に「人生歌ありき」「愛してる」が貫く。
今回は、やたら普通の高校生やら島の人が登場し、役者は少ない。そういう意味でも映画の常識を外れた、それでいて素人っぽさを感じないおおらかな作品である。それにしても、多数出演している石垣島の現役高校生ののびやか感には笑いと清清しさを感じる。
詳細は映画館で。
東京では14日から公開されており、順次全国で公開される。
沖縄では28日から桜坂劇場、リウボウホールで公開。
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23:14
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2007年04月05日
沖縄の4月4日という日【日本とは?】
1999年4月4日、沖縄尚学高校がセンバツ優勝。沖縄に春夏初めて
優勝旗をもたらした。
もう8年も前になる。
このとき自分たちは、大阪と兵庫で毎日新聞優勝号外を発行、
配付した。
近畿勢以外の優勝で阪神間で新聞号外を配付したのは、
異例中の異例だった。
その120年前の1879年4月4日、「沖縄県」が誕生した。
それまでいちおうは独立国の体裁を保っていた琉球王府を、
明治政府が一方的、
弾圧的に統合した「琉球処分」である。
「日清両属的立場だった」琉球国を、台湾出兵の口実のため
強制的に「琉球藩」とし、さらに軍隊・警察の圧力のもとに
同年3月31日を限り首里城の明け渡しを琉球王府に命じた。
ただし、県になっても農民支配と収奪の構図は近代化されなかった。
さて、2007年4月4日は、2月から嘉手納基地に配備されていた
ステルス戦闘機F22が、5月までに同基地を離れることが
明らかにされた。
心房と心室にドドドドグウィーンと響くような轟音の戦闘機だったが、
去ってくれることになった。
この夜、西宮市のよねちゃん探偵を那覇に迎え、
うちなんちゅ・グリム探偵、うちなーゆめ・terup435探偵とで、
松尾のPICHITANでパスタパーティを開いた。
よねちゃんと在沖の2人は初対面だったが、
こじんまりした暖かい店の雰囲気と絶妙なパスタ・スイーツで、
とてもまったりした心安らぐひとときとなった。
ちょっとしたオフ会だった。
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02:40
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2007年04月02日
沖縄練乳「ワシミルク」のナゾ【食文化】
沖縄のイチゴもやっと安くなってきたので、買った。
久々に練乳をかけて食べようと思って探していたら、
ツレが「沖縄では、練乳ではなくワシミルク」。
そういえばワシのマークの練乳、神戸でも昔そういってた
気がする。
調べたら、ワシミルクは神戸で作られていた。
(ネスレ日本「ネスレイーグル」、現在那覇で販売されている
ものは熊本工場製だった)
ネスレ日本によると、東海以西でしか販売していない商品らしい。
しかも、昔は淡路島の淡路練乳という会社が作っていたという。
沖縄にはいろんな温故知新があって、楽しいね。
と書いていたら、いま、偶然テレビの「お笑いポーポー」DVDの
CMで
「あんた沖縄の人ね」
「ちがいます」
「沖縄の人でしょう」
「ちがいます」
「かき氷に何かけます?」
「ワシミルク」
(笑いがおこる)
というのをやっていた。
豊岡出身石垣在住のじゅん探偵は
「へぇ…我が家は特別なものは買わず、砂糖に牛乳かけてました」
うちは牛乳に「ワシミルク」でしたよ。
子供にはたまらん味で、パンとかにもぬって食べてました。
神戸の「板金屋」探偵は
「神戸に住んでいながら知りませんでした。。ワシミルク
じゅんこさんと同じく砂糖と牛乳をかけてました。
たまに赤いパッケージの練乳(メーカーはわかりません)
をかけていたと思います。
今度ワシミルク買って見ます・・・」
赤いのは森永かな?
あっちはウシのマークだった気がします。
赤い方が目立つので 、ワシの方は地味な存在だったかも。
大阪の七月樹探偵は
「ワシミルク美味しそ〜
大阪にも売ってるかなぁ?」
神戸で作ってるものやから、大阪でも売ってるはず。
愛知より西側で販売らしいよ。
(雪印とか森永は全国販売でしょうね)
けど、砂糖の固まりみたいな甘さやけど。
浦添出身で江戸川区在住のバリー探偵は
このまえ沖縄に帰ったとき「お笑いポーポー」のCMの笑いが
分からなかったという。
なんで、ワシミルクって言ったら観客から笑が起きるの?
と不思議がると、名古屋出身の義理姉に
『普通、練乳っていうじゃない!』
といわれ、ようやくわかったそうな。
同じバージョンに
「あんた沖縄の人でしょ」
「ちがいます」
「いや沖縄の人でしょ」
「ちがいます」
「今からどこ行くんですか」
「自練」
(笑いが起こる)
というバージョンもありますね。
神戸の小田安二郎探偵は
「しかし、そんなとこにもネスレ・・・外資ですか・・・」
と嘆息。
さすが沖縄は、ポーク缶からいまやホテルまで、外資天国です。
沖縄の缶詰文化は、ぼくらが子供だったころの神戸と近い気が
します。
今はコンビーフとか食べんようになりましたが、
昔は焼きビーフンといえばコンビーフを入れてました。
カレーとかも缶詰食べてたなー
再び小田安二郎探偵
「昭和40年代あたりまで、缶詰はセレブな食べ物のイメージが
田舎育ちの私にはありましたなぁ。
そう言えばコンビーフの正しい食べ方というのが
長い間私の中では謎でしたが、
兵隊の携帯用というのを何かで読んで、
あの美味いのか不味いのか判断しかねる味に納得した
記憶があります。
さらに・・そもそも缶詰はナポレオンが遠征時用に開発させたと
いうのはホンマかな?と、
無理やり社会派な展開にしてしまいました」
ナポレオンやったんですか。コンビーフも子供時代大好きで、
戸棚あけて見つけてはそのままかじってました。
今から考えると、あんな酸化物で油の固まりよう食ってたなー
と青ざめます。
宜野湾市のグリム探偵は
「幼い頃、熱が出たり、はしかになったり、とにかく病気すると
必ず出てきたのがわしミルクでしたよ。
私の年代の人ならだれでも知っているわしミルクの味だと
いっても過言ではないと思う。
元気になれた気がしたから不思議。
昭和20年から30年前半なら病気のとき飲んでいるはず。
今でも好きですよ」
当時の沖縄にとっては大切な食品だったのですね。
ふだんは口にすることのできない・・・
そういわれると、なんだか愛しく思えますね。
たしかに、子供にとっては元気になる味だったですね。
うちにも常備してあって、実家の親は今も使っています。
宮城のかいこ探偵は
「ワシのマークのは、宮城では見かけたことありません
(多分・・)。
牛マークですね。わたしは、砂糖+牛乳が好きです
(イチゴつぶして)。
缶詰は、ナポレオンが開発させたと私も聞いたことあります。
いかがなんでしょう? 」
おっと小田安二郎さん説の裏付け証言ですね。
やはりナポレオンの作品ですか。
ところで、缶詰の正味期限ってどうなんですかね?
ずっと前は製造年月日は刻印してあって、半永久的に
食べられる と思ってたのに、
最近は正味期限が書いてある。
で、このまえ正味期限から4年たったカニ缶を食べたけど、
別にどうもなかったです。
浦添市のterup探偵は
「ワシミルク沖縄に来て始めて知りました。
義母もワシミルクは昔からあったと言っていたので
アメリカのものって思っていたけど違うのね。
昔から沖縄と神戸は流通があったんですね。
うちはイチゴには砂糖と牛乳でした」
昭和の沖縄にとって、なくてはならない食品だったのかな。
みんなの情報によって、戦後しばらくの沖縄の家庭の様子が
少しイメージできますね。
沖縄の缶製品はKレーション(沖縄戦時の米軍食糧)の
印象が 強いのかな。
昔、淡路島で作っていた頃も、もしかしたら需要は牛乳事情が
悪かった沖縄向けだったかも。
再び浦添出身江戸川区民バリー探偵
「terup435さん、アメリカの物じゃないかなぁ?
神戸は米軍港があったんだっけ?
沖縄はもちろん米軍に接収されていたし」
そうか、占領当初はアメリカ製だったかもね。
そのうち国内でまかなえるようになったのかな。
神戸は、市内中心部にやはり占領地があったようです。
期間は短かったようですが、進駐軍が駐屯し、
そのころは 軍港化していたかも。
うちの家系は貿易商で、アメリカと沖縄の物資に絡んでいた
ようなので、おそらくワシミルクの運び屋をやっていたでしょう。
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20:36
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2007年03月29日
“北城ろう学校校長”植木等さん逝去。涙の「遥かなる甲子園」
仰木彬さんと並んで好きだった2大おじーのひとり、
植木等さんが亡くなられた。
植木さんの名演は数々。
自分にとっては、なんといっても事実をもとに描かれた映画
「遥かなる甲子園」(1990年東宝、大澤豊監督)の
沖縄県立北城ろう学校の校長先生役。
1963年、アメリカで大流行した風疹は、米軍基地経由で
そっくりそのまま沖縄に持ち込まれた。
たくさんのお母さんが風疹にかかったため、翌1964年には
聴覚障がいを持った子供たちが500人近く生まれた。
当時は妊婦に対する風疹の危険性に関する情報も行き渡って
いなかった、いや、米国本国の怠慢だったかもしれない。
沖縄では、期間限定でろう学校が設置された。
それが北城ろう学校だった。
やがて高等部に上がり高校生になった彼らは、野球部を作り
甲子園を目指したいといいはじめる。
消極的な高野連は、当時の高校野球の規定ではろう学校は
対象外だし、安全面を考えると軟式ならよいという。
だが沖縄には軟式野球部を持つ学校はなく、試合ができない。
何より、目指すのは甲子園。
健常な高校生ならよくてろう学校の高校生はダメというのも
納得がいかない。
日頃ひっこみがちなろう学校の生徒たちの積極的な申し出を
なんとか実現しようと規則の壁、「常識」の壁に立ち向かう
教師達。
その先頭に立ったのが、植木等扮する謝花校長だった。
本当にいい味わいを出されていた。
懸命に手話で思いを伝えようとする生徒と教師たち。
そしてついに野球部誕生が実現する。
創部して3年目、公式戦で一度も勝てない北城ナインは、
最後の夏を迎える。
この年限りで学校も使命を終え、消滅が決まっている。
県予選の相手は、宜野座高校(映画では架空の高校)。
0ー4で迎えた後半、無死満塁。大城の打球は・・・
みんな泣きながら、三浦友和扮する大庭監督を声のない
胴揚げ。校長先生も涙の笑顔でありったけの拍手。
野球の原点を見る作品、というか、事実はドラマよりも
感動をもたらすものだなと思う。
ロケの行われた沖縄市球場に行くと、この映画を思い出す。
「火垂るの墓」とともに涙が止まらなくなる映画だ。
これを書いていても、涙が出てくる。
沖縄に関心のある方もない方も、見てほしい作品。
同名のドキュメンタリー小説は絶版だが、図書館には
あるはず(双葉文庫)。
映画はTUTAYA等でレンタルされている。
手話だし聴覚障がいを持たれている方のため、
字幕版と 通常版があったと思う。
折しも、センバツ高校野球の真っ最中。
ご冥福をお祈りいたします。
浦添のterupさんから
「この時代の役者さんて本当に個性的で味がある人がたくさんいますね。
「遥かなる甲子園」の映画は見たことがありませんでしたが、
本は前に読みました。
いつか見るチャンスがあるといいな」
植木等さんは個性派の中の個性派だったですよ。
まじめなのかふまじめなのかわからんところがよかった。
とっても小さかったにも関わらず、シャボン玉ホリデーには
ずいぶん影響を受けました。
石垣のじゅんさんは
「こういう話しがあったんですね。
沖縄だからというのではなく、映画が観たくなりました」
ぜひ見てねー
映画に出てくる1980年代の沖縄の町並みとかも楽しいですよ。
野球部を作ろうと言い出したのは、主演の男の子が中学時代に
ひとりで甲子園に行って、ろうである自分には聞こえないはずの
大歓声が聞こえてきたからなのです。
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01:29
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